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nogutisinzo

2009年04月05日

イチローの軌跡~前半~

1991年 - 1993年

1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団。1992年7月12日の福岡ダイエーホークス戦で木村恵二投手からライト前へプロ初安打を記録した[1]。

浅田のリンク

1992年は.366の高打率でウエスタン・リーグの首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの1軍首脳陣から振り子打法を否定され、足の速さを活かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、1軍に定着することはなかった。同年のジュニアオールスターでは同点の8回に代打決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付した(2軍選手でこのことをしたのはイチローが初めてである)。

枝久保のリンク

1992年と1993年でプレーしたウエスタン・リーグでは、2シーズンにまたがり46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)[1]。1993年のウエスタン・リーグでは打率.371を残したが、1軍半であったため規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346)。同年オフにはハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズというチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた[2]。

江川のリンク

1993年、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄からプロ初本塁打(1993年6月12日、長岡市悠久山野球場)を放ったものの[3]、その日に2軍降格を言い渡されるなど2軍生活を余儀なくされていたイチローは、同年の秋に、河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。

五十嵐のリンク

1994年

監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木」から「イチロー」に変更させ、1軍の2番打者に抜擢する。1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解され、レギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、この年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。打者としてはプロ野球史上最年少でMVPを手にした。

飯田のリンク

1995年

主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」に。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)、全イニング出場での首位打者は1969年の王貞治に次ぐ史上2人目の快挙。リーグ3位タイの25本塁打で、本塁打王の小久保裕紀とは3本差であり、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩であった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球に加え、当時の日本タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残し、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となる正力松太郎賞も受賞した。



1996年

開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲーム第1戦では初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板し、高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。9月23日の日本ハム戦では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。読売ジャイアンツとの日本シリーズ第1戦では、延長10回に河野博文投手から決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、優秀選手賞を受賞した。

生田のリンク

1997年

この年以降は主に3番打者として出場。6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の日本ハム戦で下柳剛投手から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずかに3つである。

今田のリンク

1998年

張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。同時に、5年連続・通算5回目となる最多安打を記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)。

今井のリンク

1999年

4月20日、日本ハム戦で金村曉投手から本塁打を放ち、プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の西武戦では松坂大輔投手から通算100号本塁打を打った。前半戦だけで19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位の763でストップした。

井本のリンク

2000年

プロ野球歴代2位のシーズン打率.387を記録。開幕戦から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日のロッテ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日であったため、この試合終了後、イチローはファンの大声援に手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。

伊納のリンク


1994年から2000年まで7年連続で首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに、1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。





<以上、wikipediaより引用>



Posted by nogutisinzo at 23:47│Comments(0)
 
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